斎塾レポート

■日 程:令和2年926日(土)14時~16

■場 所:蕨市・スペース暁斎にて

■テーマ:一部 河鍋楠美氏 講話

         河鍋暁斎記念美術館・館長

     二部 「私の好きな暁斎作品」第3弾

 

■レポート:暁斎塾・メンバー



今回は河鍋楠美先生のお話しと2名の塾生からの発表でした。

 

□河鍋楠美先生による暁斎が描いた「地獄太夫と一休」のお話し。

 

地獄太夫の絵は、人気があったのでたくさんの作品が残されており、贋作もたくさんあったとのことです。

 

贋作との見分け方は、一つ目として骸骨の骨が、いかにしっかりと描かれているか、とのことでした。人体の、特に骨のことをよく知っていた暁斎は、精巧に描けていますが、それを真似た贋作家の絵はちゃんと骨のことを理解せず模写しています。そのため、自ずとその表現は曖昧になっているとのことでした。この暁斎の人骨に対する精巧な描写は、あの養老孟司先生も大変好きでいらっしゃるというお話も興味深いお話しでした。

 

地獄太夫の着物の柄ですが、実は一つとして同じものがないとのことです。例として「ウェストン・コレクション」、「ゴールドマン・コレクション」「ボストン美術館」それぞれの作品が紹介されましたが、確かに、唐衣だけでなくその下に来ている着物の柄も皆違っていました。特に地獄の炎における細やかな表現は贋作者には模倣できないとおもいました。

 

暁斎の絵には同じものがないというお話から、昔は男の子が産まれると魔除けなどの意味合いから鍾馗の絵を頼まれることが多かったそうですが、その数はとても多かったのにも関わらず、やはり一枚たりとも同じ絵は描いていないというお話でした。

 

次に「暁斎楽画第九号 地獄太夫がいこつの遊戯ヲゆめ二見る図」大判錦絵 明治七年(1874)河鍋暁斎記念美術館蔵が紹介されました。

 

こちらの絵も養老孟司先生が大好きな1枚とのことで、骸骨の骨がバラバラになったところの精巧な表現は暁斎ならではとのことでした。また、極楽太夫の絵も紹介されましたが、その着物にはカエルではなくサンゴの絵が描かれていて明治四年以降の、暁斎の名で世に送り出したものとなるそうです。

 

今年の11月から東京駅のステーションギャラリーで行われる下絵展のことがご紹介されましたが、普通、下絵は門外不出のものですがこの下絵をお持ちになっている家はないそうです。この、秘蔵といえる鍋家の下絵の展覧会はとても興味があります。

 

楠美先生のお話によると暁斎の手による実際の作品として仕上がっている絵は、あくまでも最終形としての線で描かれていますが、下絵にはさまざまなタッチなどの魅力があり、日本ではあまり評価されない下絵も海外の人に見ていただくと、とても喜ばれるとのことでした。

 

 

 

□塾生からの発表、一人目の方は「比べる地獄太夫」という内容です。

 

類似する作品が多い地獄太夫図ですが、じっくり比べて見てみると細かいところがだいぶ変わるとのことでした。

 

まず、版画作品の地獄太夫からご説明がありました。暁斎記念美術館の版画作品「地獄太夫がいこつの遊戯ヲゆめ二見る図」」からはじまり、次にドイツのケルン東洋美術館の「地獄太夫図」のご説明でした。これらは、骸骨がアトリビュート、地獄太夫のシンボルとして描かれているので、地獄太夫とわかるそうです。この地獄太夫は、江戸時代の浮世絵美人風に描かれていて、暁斎の美人図の顔にしてはやや古風な印象を受けるとの指摘でした。

 

次にエツコ&ジョー・プライスコレクションと河鍋暁斎記念美術館の「閻魔大王と地獄太夫図」が紹介されましたが、この二つは酷似する作品らしいのですが、比べてみるとやや趣が違うことがわかるということでしたが、2者を並べるとよく理解できました。

 

次は、「地獄太夫と一休図」。イスラエルゴールドマンコレクションでは、即興に描かれた袈裟の一休と緻密な地獄模様の着物の対比でバランスをとっているとのことで、美と醜の対比がある暁斎の特色として、その典型的な例として挙げられました。

 

そして、「一休禅師地獄太夫図」として、シカゴのウェストンコレクションの銘品から紹介されましたが、なんと約一億円がついたとのこと暁斎の実力をおかねで図るのもなんですが、それでも「評価」という意味では嬉しいことです。暁斎の英国人の弟子コンドル旧蔵品は、コンドル、医師のウィリアム・アンダーソン、再びコンドル、ウェストンコレクションと所蔵者を点々としたそうです。コンドルの著書「Painting and Studies by Kawanabe Kyosai」にも掲載され、暁翠の鑑定書もついているとのことで、おそらく暁斎があまり弟子に手伝わせていない作品と思われるそうです。同じくコンドル旧蔵で、コンドルの絵が上手になったことへのご褒美として描かれた「大和美人図屏風」も暁斎が一年もの時間を掛けて仕上げた大作であり、恐らく暁斎一人でほとんど描き上げたものと思われていることです。地獄太夫と美人の顔を比べてみると瓜二つで、この顔が暁斎にとっての美人の基準ではないかとのご感想でした。

 

次は、福富太郎旧蔵で現在はイスラエル・ゴールドマン氏の所蔵する「地獄太夫図」と「一休禅師地獄太夫図」との対比ですが、太夫の周りで踊る骸骨の数がより減っていたことと、また、色彩が淡い印象を受けましたが、もしかしたら画料に差があったのかもしれないとの発表者の感想でした。いずれにせよ、一休と地獄太夫、そして骸骨の組み合わせに深追いしたくなりました。

 

次は、ある歴史学者が鎌倉で買い求め、十年ほど前からボストン美術館に入った「地獄太夫図」の紹介でした。こちらも先述のものとは趣がだいぶ変わり、屏風ではなく衝立が描かれていて、着物の柄も地獄の見立てではなくなっているとのことでした。

上記、3種の地獄太夫を紹介いただいたが、骸骨がもつ三味線の腹が空洞、一休のもつ扇子も骨だけというのは流石、暁斎ならではの発想と感心しました。

 

そして、河鍋暁斎記念美術館の「極楽太夫図」では、非常に色鮮やかに描かれていますが、先述までの三つ作品と大幅に代わり、一休と骸骨がいなくなっているのが特徴として挙げられ、着物の色も極彩色になっていることが特徴とのことでした。また、クリーブランド美術館の「地獄太夫図」は、東京国立博物館で展示された際、地獄太夫と表記されましたが、実際は極楽太夫ではないかとのご指摘で、こちらは保存状態が良いとの発表者のご感想でした。

暁斎の描く美人画はどの作品も品がよく、凛としているところが好きです。

 

最後に個人蔵「地獄太夫図」が紹介されました。こちらはこれまでの作品と比べ横に引き伸ばしたような印象とのことで、一休の周りの骸骨はシルエットとなっているとのことでした。さらに、ウェストン本とボストン本では、大幅に一休禅師の描写が変わっているとのご指摘で、きっとボストンのものは弟子の手が多く入っているのではないかとの印象を持っていられるそうです。

 

館長のお話をもとにさらにこの発表を聞くとされに色々なことが理解でき、楽しい発表でした。

 

□塾生からの発表、二人目の方のテーマは「探検、デジタルアーカイブ化された暁斎作品」という内容です。

 

海外のデジタルアーカイブは、暁斎を北斎や広重と並ぶ才能のある文化的価値として、認め、保存しているとのことです。そのバックボーンとなっているのは、組織と財源力が強く、幅広い思考で新しい分野をデジタルの技術を生かし、そのことで顧客の満足度をつくっているからとのお話でした。 

 

さて、日本のデジタルアーカイブは、国立国会図書館よりも大学のデジタルアーカイブとその研究機関の方がまだ良質であるというご指摘でしたがその要因の一つにはわが国は、研究としての組織力がある一方、著作権制度が厳し過ぎて、大学としてのコレクション化となる思考が強く緩いところまでは届かないとのお話でした。

我が国も近年気候変化による災害の頻度や規模が大きく変化してきた。各、博物館、美術館の所蔵品についても国の財産としてデジタルアーカイブ化は急務を要するといえるのではないだろうか?

 

次に、海外のサイトで暁斎を検索するときに気を付けることとして、例えば、スミソニアン博物館の場合「Kyosai 」として検索して382 件、「Kawanabe kyosai 」として検索して378 件がヒットするとのことです。また、他のサイトでもどちらか片方で検索ヒットすることがあり、春画があり無修正で閲覧できてしまうような問題点や北斎の絵と被っていないか注意して閲覧することも必要とのお話しでした。

 

さらに、125000 点の高精細画像のなかから気に入った画像をポスターや葉書など無料で使用でき、その注文ができる「アムステルダム国立美術館」や印刷物、楽譜、地図などが保存されている「Gallica(がりか)フランス国立図書館」では、暁斎がなくなった際に発行された新聞記事も閲覧できるなどのご紹介もありました。

 

最後にまとめとして、明治期から海外も河鍋暁斎の存在をしっかりと認識していたGallica(がりか)の報道記事が、海外の視点を参考に暁斎の魅力再発見の効果を発揮していること。奥田定右衛門行高を描くことによって暁斎の好みが何なのかヒントがあったこと。

海外のデジタルアーカイブのおかげで、過去の資料が河鍋暁斎の凄さを令和の時代に、その先にも語り告げられるなどの感想が挙げられました。

確かに河鍋暁斎についての研究はまだまだ遅れています。海外に流失している作品がかなりあると聞いています。研究者にとっても愛好家にとってもそれらの作品が自由に見られることを期待しています。欲を言えば翻訳機能がさらに進んでくれることを望みます。

 

また、補足として、海外のデジタルアーカイブは、保存思想が日本と違っていた点。例えば。ヨーロッパの国では、航海時代に植民地から略奪、窃取したお宝をコレクション化して権力と豪族の凄さを見せつけていたが、同時に教養・啓蒙主義の価値を作り出すことができていた。つまり、そこには見せる意欲があり、この習慣を基にアメリカとその他、大手企業も含めてデジタルアーカイブで自分たちの力強さを生かしていけているとの意見が述べられまた。

しかし、日本はコレクション止まりによって「公開」という概念が働いていない。近年は「公開」の意識が改善されているけれど保存思想を学ばないと他では勝てない。

競争性が弱い、「見せびらかす」をためらっているのではないのかというご感想を述べられました。

海外の美術館、博物館が著作権フリーの作品を公開し始めた。日本においてはアーカイブ化の遅れより旧態依然のままであるが、その不自由さだけは早く解消していただきたいものです。

 

 

 

 



斎塾レポート

■日 程:令和2年6月27日(土)14時~16

■場 所:蕨市・スペース暁斎にて

■テーマ:一部 河鍋楠美氏 講話

         河鍋暁斎記念美術館・館長

     二部 「私の好きな暁斎作品」第3弾

         発表者 :暁斎塾メンバ           

■レポート:暁斎塾・中嶋美幸


一部 河鍋楠美館長 講話

ご自身の戦時中のおはなし、先生の幼き頃から女学校、大学までのこと。女子は18歳には結婚する時代に女性が学ぶことの難しさ等をお話しくださいました。

また、暁斎にまつわる秘話は作品が生まれたその背景が分かり大変興味深いおはなしばかりでした。

例を上げると「暁斎は描くとすぐ人にその絵をあげてしまう」「書画会ではいつも暁斎のところには行列」などなど。この二つを挙げても暁斎の気前のよさ、江戸っ子気質の人気絵師ということが分かります。

 

また、別の話ですが、フランスの早描きの名手として名高いフェリックス・レガメーが暁斎宅を訪れ、暁斎の肖像画を描くという場面で、モデルとなっている暁斎は袂の下でチョチョット硯に墨をすり、筆でレガメーを描いた、その速さにレガメ―は驚愕していた、というエピソードを館長がお話くださいました。

そのことは「暁斎とレガメーの対決」というタイトルでたびたび講演会などで話されるそうですが、同時間内にお互いを描いたという絵をみても暁斎の実力のすごさが歴全とし感じられました。河鍋先生のお話はいつも興味深々のお話ばかり、とても貴重な時間でした。

 

 

第二部 「私の好きな暁斎作品


「私の好きな暁斎作品」第3弾では、今回3名の方が発表されました。

 

「化け猫」

一人目の発表者は、暁斎の絵を知り、そして惹かれたのは、まず表現の面白さとのことでした。「化け猫」という絵は、本来ならば怖い存在のはずが、とても可愛く見えるとの感想で、またそれを見て驚く人物がのけ反る姿も、とても激しく生き生きと描かれ、暁斎の人物描写の極み、ここにありといった感があるとのことでした。

 

「地獄太夫と一休」

まず、そのテーマの大胆さに驚きを隠せない、地獄太夫と一休さんが踊っている絵なんて、普通の発想では思いつかない、との感想でした。楠美先生からは、絵としては贋作があるとのお話しで、その見分け方としては、描かれているガイコツにポイントがあるとのこと。古今東西、暁斎の絵を真似る人は多くても、このガイコツの描き方はなかなか真似できないとのお話しでした。また、一緒に紹介された地獄太夫と裾から覗く閻魔大王や、罪人と閻魔大王と鬼の顔が並ぶ絵など、暁斎ならではのユーモアセンスや細やかな表現に、塾生からもさすが暁斎、と感嘆の声があがりました。

 

「波乗り観音図屏風」の紹介では、その絵のタイトルだけ見ても組み合わせの面白さに独特の味わいがあり、また絵を見れば大小の大胆な比較表現など、遠近法では考えられないような構図の作り方があることなどにも塾生の関心が集まりました。

 

「北海道人樹下午睡図」(別名「武四郎涅槃図」)の絵に関しては、楠美先生より松下武四郎が命を追われ、いつ死んでもいい状況のなか、暁斎が約5年もの歳月をかけて描き上げた作品であることが紹介され、激動の時代によって様々な影響を受けた暁斎ならではの絵師としての人生を伺わせる逸話となりました。

 

発表されたご本人は、書画会の絵や絵日記にも大変興味があり、何時間もずっと読み続けてしまうほど楽しくて仕方がないとのことでした。絵日記に関しては楠美先生より、今後さらに研究を続けて行きたいとのお話もありました。

 


「一寸見なんしことしの新ぱん」

 

二人目の発表者は、「一寸見なんしことしの新ぱん」という浮世絵を紹介されました。この浮世絵では、まさに「庶民の味方、暁斎先生」と言わんばかりに、翌年に明治維新を迎える1867年に描かれた世の中の世相を念頭におき、暁斎が当時の物価の高騰を痛烈に風刺しているとのこと。ただし、発表者がこの絵が好きなのはそこではなく、天狗というお化けが大好きで、その天狗たちが主人公として描かれている絵だからとのことでした。天狗という存在に注目すると、この絵において天狗というお化けそのものの重要な一面が理解できるとのことでした。

 

当時は、各藩が戦のために米を買い占めたため米を中心に物価が上昇し、生活が苦しくなった民たちによって一気や打ち壊しが全国で起きていたそうです。ハリボテの富士山をせっせと築く、顔が物品名の大工たち。その顔には当時高騰した米や薪、呉服などの文字が描かれ、下の麓に行くにつれ物価指数が低くなっていますが、一番下に給金を置くことで、民の暮らしの苦しさが表現されています。

 

絵柄の脇の方では、高下駄を履いた修験者や鼻の高い天狗が険しい顔をして立ち、雲の上からは格の高い名山に所属する天狗たちが高みの見物をしている構図によって物価の高さが皮肉られています。発表者は、当時混乱したのは経済や政治だけでなく、宗教であったことにも着目。有名な神仏分離令が出されたのはこの絵が制作された翌年で、その部分でもこの絵で暁斎が現したかったことが伺えるとのことでした。

 

天狗は、江戸時代に仏教の一派とされる修験道に由来し、山の神として全国的に信仰されていたようです。一方、魔王の如き強大な存在であった天狗は、仏教の敵であり、王朝や幕府など政治体制の的でもあって大火事や戦を引き起こす大変恐ろしい存在のお化けと考えられていました。

 

このような存在であった天狗が、当時の混乱した世の中を見て高笑いしているような表現など、いたるところに暁斎ならではの切れ味抜群、とんでもないブラックユーモアのセンスが遺憾無く発揮されていて、とても気に入られいてるそうです。


「暁斎作品をデジタルアーカイブで人と文化施設を支える」

 

三人目の発表者からは、太平洋戦争中に河鍋家が疎開によって暁斎作品を保存できたお話しをヒントに、今後の美術作品の保存に対する多角的な意見が述べられました。

 

楠美先生のお話によると、戦争当時、河鍋家は鶯谷に居を構えていたそうですが、戦争が激化するに伴い赤羽へと疎開。その後、さらなる戦火の悪化と共に蕨へ移住。その際は、馬引き5台で霧の箱に絵を入れて移動したとのことです。

 

このように疎開を視点に芸術作品を守るにはどうするべきか。発表者からは、その一つの答えとして、作品と文化施設が事故、被害を受けた間に役立ててもらえるものをデジタルアーカイブに任せるという意見が出されました。そして、河鍋暁斎の絵のような世界的な知的遺産と呼べる作品が、現在の技術で生かせる範囲でどんな役割を担えるのか、その価値を伝えるということへのテーマに話が続きました。

 

やはり、非常時の最中に芸術作品を疎開することは大変なことで、数多くの作品を安全な場所に移すには、移転先が絶対に安全な環境であることが必要とのこと。そして、保管する施設が頑丈か、湿気対策が万全か、周囲の人たちの理解と了承が得られるかも重要とのことです。

 

事例として、ドイツでは戦況悪化に伴ってヒトラーコレクションをアルトアウスゼー塩抗へ疎開させ、そのなかにはファン・アイクやミケランジェロ、フェルメール、ルーベンス、ティツィアーノなどの作品があったそうです。

 

また、日本では太平洋戦争中に千代田区の日比谷図書館所蔵約40万冊を疎開させた人々を、2013年に映画監督の金高謙二氏が追ったドキュメンタリー映画「疎開した40万冊の図書」が公開されたそうです。

 

 

そして、近年では京都アニメーション放火事件の例なども挙げられ、“今”起きている事をこれからも多くの人に見せて伝える取り組みはどうすれば良いのかを検討する必要がある。そのために“被害”を受けた事例を参考にデジタルの力で支えられる価値を創造し、様々な作品を大事にする目標を目指していきたいというお話をされました。


暁斎塾レポート

■日 程 :令和2年222日(土)14時~16

■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて

■テーマ:「私の好きな暁斎作品」2
■発表者 :暁斎塾メンバー. 
           

■レポート:暁斎塾

 

 

 

 

 


昨年に引き続き、「私の好きな暁斎作品」第2弾の発表会をおこなった。

先回は時間が充分とれなかったので今回は5名の方が発表された。

 

 ●「メンピスの画風と暁斎」

モーティマ・メンペス(オーストラリア出身のイギリスの画家、版画家)の紹介があり、メンペスに関しての後藤礼圭氏「モーティマ・メンペスのまなざし」コラムと数点のモンペス『青銅職達』、『七宝焼の職人』、『日本の大工』と3点ののエッチング画像で画風と暁斎の画風の接点について感想をのべられました。暁斎の幅広い交友関係を紹介下さいました。

メンペスについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/28 06:52 UTC )にて河鍋暁斎との関係が記されている。

 

●暁斎作品6点についての印象等を述べられた。それぞれの作品から暁斎の画風にとどまらずその中から暁斎の人となりを感じる観察の豊かさが素晴らしかった。

「東海道名所之内 秋葉山」

「僧正坊、牛若丸」

「山姥図」

「元禄日本錦 け倉橋伝助武幸や岡島八十右ェ門常樹」

「元禄日本錦 わ堀部安兵衛武庸」

「大森彦七鬼女と争うの図」

 

●先回に引き続き海外に於ける美術作品の保存についてで、今回もスミソニアン博物館のデジタルアーカイブが素晴らしいこと。デジタル技術も水準が高く、水墨画の墨の質感が高画質で閲覧できる。日本の国会図書館とはその比ではないとのこと。また、危機管理としても各美術館もアーカイブ化するべき、また、どんどん作品は披露すべきとのこれからの美術館のあり方、マネジメントについても提案なされた。

 

 

 

●「地獄めぐり」を読んで;暁斎塾の意義と自己省察

「(美術)作品には作者が意図した意味が十全に込められている。

だから、美術史研究者あるいは鑑賞者にとっては、

それを探り当てることが最も重要な課題である」

--そういった考え方を捨ててみてはどうか。

作品には、作者の意図せざる意味…が無意識のうちに込められている。それに光を当ててみることによって、これまで見過ごされてきた新たな輝きを、作品から引き出し得る可能性がある*-…美術史において注目されるのは、鑑賞者の立場である。作者(彼)の歴史ではなく、鑑賞者(私)の現在を問うてみよう。

 

…しかし、私にもまた明確に意識されることのない私の心の内面がある。…ゆえに、私自身を相対化し、私の「まなざし」を他者の「まなざし」と重ねつつ、個々の作品に向かう必要がある。結論を急ぐことなく、他者の意見に耳を傾け、ゆっくりと考え続けなければならない。

☆図書紹介



暁斎塾レポート

■日 程 :令和元年1221日(土)14時~16

■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて

■テーマ:「私の好きな暁斎作品」
■発表者 :暁斎塾メンバー.            

■レポート:暁斎塾 幸野哲也


 本来ならば、河鍋暁斎記念美術館館長で暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美先生の講義が先ずありますが、今日はご不在でしたので、新たな試みとして参加者がそれぞれ自分の好きな暁斎の画を3枚程度持ち寄り、それについて思うことなどを自由に語る方式で進められました。一人8分の時間枠で好きなことを語り、参加者で感想や意見を述べるという少人数ならではの和気藹々とした雰囲気で2時間超、あっという間に過ぎました。それにしても、みなさん、絵画には素人などと謙遜されていましたが、何のことはない、その絵(画)の持つ特徴や色彩、筆使いについて、聴いている者(特にど素人の私)の目を開かせることをみなさん連発していましたね。ホント感嘆いたしました。

 因みに、私は①美女の袖を引く骸骨、②地獄太夫と一休、③花を活ける骸骨、の3枚を提示し、そこから何を読み取ったかを話しました。

 下記の3枚の画に共通する点、すなわち、そこに「生と死」を感じ、それが1枚の構図の中に表現されていることに、<河鍋暁斎>という日本絵師がどんな人だったかについて想像を逞しくしたのでした。敷衍するならば、美女、あるいは太夫は「生者」、骸骨は「死者」を表象し、さらに「死者」たる骸骨が花を「活けて」いる。これは、「生」と「死」を分けて考えるのではなく、仏教でいうところの「生死(しょうじ)」ではないか、西洋的な二項対立ではなく、東洋的な包摂(あるいは、「事事無礙(じじむげ)」)を意味しているのではないか、と感じた次第です。と、その時、2ヶ月ほど前になりますが、ある講演会&シンポジウムで、奈良興福寺の寺務老院・多川俊映師が話されていたことを思い出したのでした。

 

  ※以下の作品はネット美術館「アートまとめん」さんより資料としてお借りしました。


――師曰く;

1960年代中頃から『これからはモノではなく〈心の時代〉だ』とよく言われたものだが、今に至るまで同じことを言っている。なぜか?それはモノと心を分けたからだ。そもそもモノを大事にしないで心が豊かになるはずがない。愛と憎しみ、善と悪、無と有、上と下、生と死、などと言って(二項対立的に)二つを相反することとして捉える〈心の動き〉が問題である。これを仏教が問題視する『心がざわめく』という。

「仏教では生と死も分けない。『生死(しょうじ)』としてみんな〈つながっている〉のだ。表も裏も両方活かす、これが東洋的考えである。だから、昨今かまびすしい『人生100年時代』に空虚さを感じるのは『死』というものを遠ざけているからで、死を遠ざけて本当に輝いた人生と言えるのか。

「『心の時代』と‘念仏’のように言っているうちはダメ。では、どうするか?次の三つを実現することだ。すなわち、①対立構造を造らないこと、②自他を比較しない(他人に動かされない)こと、③不都合を捨てないで抱えていく、あるいは受け入れること、である」と。

 

このことを想起しつつ、<河鍋暁斎>という絵師は「明治に入り西洋第一の風潮の中で、二項対立という言わば西洋的コードに従わず日本的なものを守ること、それが西洋と対等になるという信念を持った人」だったのではないか、と私なりに推測したものです。なお、その際、「日本的霊性」という言葉も頭をよぎったのですが、「霊性」を英語で言うとspiritで、spiritは「酒」という意味もあることから、『そうだろう、河鍋暁斎は日本的霊性を分かっていた人だ、なぜなら大酒飲みだったからだ』などと、想像を逞しくした私は無理矢理spiritまで暁斎にこじつけて独りごちたのであります。分断が深まる昨今の世界にあって、東洋的な「包摂」の精神が求められているのではないでしょうか。


その他の感想

私の好きな暁斎作品・・・画像を何点かご紹介いたします。皆さん思い出の作品、初めて出会った時の作品など語りあいあっという間の楽しい2時間でした。今回は10名の方が発表されました。当日、ご都合が悪く参加されないメンバーもいらしゃいましたが、皆様それぞれ印象に残る作品名のお知らせがあり、次回のお楽しみにさせていただきました。

以下の画像は①~③番目河鍋暁斎記念美術館、④番目メトロポリタン美術館所蔵 ⑤番目河鍋暁斎記念美術館所蔵、⑥番目スミソニアン博物館の作品、⑦、⑧番目が河鍋暁斎記念美術館所蔵の作品です。 今回のレポートに作品の提供のご協力いただきありがとうございました。   レポートy.s


暁斎塾レポート

■日 程 :令和元年1026日(土)14時~16

■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて

■テーマ:「狂齋百圖」の近世戯画としての魅力

   一部  河鍋楠美 館長 「河鍋暁斎記念美術館」

   二部 宮尾 與男 氏「近世文学・戯画研究者」
■参加者 :暁斎塾メンバー. 

                 河鍋暁斎記念美術館友の会・一般

 

■レポート:暁斎塾メンバー


 

今回のテーマは「狂齋百圖」の近世戯画としての魅力でした。

一部は河鍋楠美先生の狂齋 (明治3年までの雅号)の戯画を画像で示し解説をしてくださいました。古くから言い伝えられている諺と暁斎の絵、おどろおどろしている絵でもどこかコミカルでしかも的を得ている。暁斎の日常への細部にわたる観察力が見事に表現されている。諺を知るとともに絵を見て当時の庶民の生活が想像できて楽しい。又、河鍋館長の歯切れのいい「時世を斬る」説明。何ともたまらなく楽しい講座でした。

 

二部は今回、お招きした宮尾與男先生のお話は近世戯画、戯画の流れについてのお話でした。近世戯画は鳥羽絵が始まり。(享保年間)鳥羽絵は長きに続いているのは代々主人公を継ぐことにあるとのこと。漫画のサザエさんのように執筆者が亡くなっても主人公は生きていて、つまりお話の流れを継続させている。と、いうことから考えて鳥羽絵の特徴は現代の漫画やアニメやなどと同じ手法であるとのことでした。

 

また、「狂齋百圖」は10枚もしくは12枚を袋に入れて売られていたとのこと。「狂齋百圖」とあるが実は百四図あることの説明。二つの版元がそれぞれ102枚ずつ出し、結局、どちらかの版元が新たに2枚を足して刷ったので計104図になったのではないかといわれている。まだ104枚をそろえた版の所在はわからないとのことなど、百圖にまつわる興味深いお話をしてくださいました。

 

1部、2部とも暁斎についての興味をさらに引きだしてくださる講座でした。狂斎は博識かつ勉強家で様々な画法に興味をもっていた。鳥羽絵も狂斎の絵手本のひとつであり、それを取り入れて狂斎独自の発想で「狂齋百圖」が出来上がったのかと独自に理解しました。暁斎は常に庶民と共に生きていたこと、そして、狂斎の持つ日常への愛から何とも温かな「狂齋百圖」が生まれたのだとおもいました。いづれにしても「狂齋百圖」暁斎の人となりを伺える優れた作品だとおもいました。

 

 


暁斎塾レポート

 

■日 程 :令和元年8月24日(土)14時~16時
■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて
■参加者 :暁斎塾メンバー.

      河鍋暁斎記念美術館友の会・一般

 

■レポート:暁斎塾・幸野哲也 (facebookより)


偶数月の第4土曜日に当たる本日24日午後2時からは、埼玉県蕨市のJR蕨駅近くにある〈蕨眼科〉3階スペースKYOSAIにおいて開催された『暁斎塾』に参加しました

『暁斎塾』は、幕末から明治にかけて活躍した日本絵師、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)の曾孫である河鍋楠美先生(蕨眼科院長、河鍋暁斎記念美術館館長)の講義を聴講し意見交換する場となっています

●本日のテーマは「摺師から見た浮世絵版画~浮世絵版画ができるまで~」

...

第一部は河鍋楠美先生の版画に関する講話、それに続く第二部においては、特別講座として河鍋暁斎の「暁斎百図」をはじめとする浮世絵復刻の〈摺師〉を本職とされている三田村努氏から、実際に浮世絵を摺り作品を復刻させる現場について紹介していただくものでした。いつもと異なり会員以外の方にも門戸を開かれており、会場は満席でした

ーー昨今、北斎ブームなどで浮世絵にスポットライトが当たっていますが、そういう浮世絵を現代において同じように摺って甦らせる技、あるいはそれを伝承する〈摺師〉についてはほとんど知られていないのではないでしょうか。三田村氏は東京木版工芸組合等に所属されているそうですが、同組合の名簿上の会員は30名、実際に活動している会員はずっと少なく、55歳の三田村氏にして若手という状況のようです
また、同氏によれば、版木や紙なども調達先が細くなってきており(同氏自身はストックがあるから大丈夫と言われていましたが)、素人の私から見ても環境は厳しい印象を受けました。そのような中、三田村氏は父君の後を継ぎ、30年のキャリアを維持されていることに心からエールを送りたいと思いました

外国からのインバウンドが今後も増加を続け、西洋の油絵とは本質的に異なる🎌の浮世絵はますます彼らのエキゾチシズムを刺激し人気は止まるところを知らないでしょう。そういう意味からも、もっと〈摺師〉の仕事に注目していかなければなりませんね
私も初めて〈摺師〉の仕事の一端をお聞きし、大変勉強になりました

10月には同氏による実演が予定されているそうですから、楽しみですねフォローしていきたいと思います。

 

プロフィール

三田村 努

 

1963年、東京都生まれ。三代続く家業を継ぎ、浮世絵版画の摺師として活躍中。国内の美術館や博物館のほか、2005年、ニュージーランドにて浮世絵版画の摺りのデモンストレーションを行うなど、浮世絵版画の普及にも努めている。現在は、暁斎が描いた「狂斎百図」の復刻に取り組んでいる。


 

暁斎塾 オプション企画

          「手描きの扇子・団扇の体験ワークショップ」

講 師 :園田美穂子先生

日 程 :令和元年76日(土)15時~17
場 所 :蕨市・スペース暁斎にて

参加者 :暁斎塾メンバー+一般参加者7名

 


 

暁斎塾オプション企画として、今回、初めて手書きの扇子、団扇のワークショップを試みました。園田美穂子先生の優しいご指導のお蔭でそれぞれ個性あふれる楽しい作品ができあがりました。皆さんに感想を聞いてみますと絵を描くのは本当に久しぶりとのこと。なにか子供時代の図工の時間のように無言で集中して取り組んでいました。今回のテーマが「暁斎が大好きだったカエル」なので暁斎の蛙に色々な思いをめぐらせながら筆を走らせていました。「暁斎」といったらユーモア。なんと、みなさんの作品の中にユーモアーが溢れていました。この夏はオリジナル扇子がきっと活躍するでしょう!程よく暑いといいですね。

                                                              レポート:暁斎塾Y.S/写真:A.K


 

参加者の声

★最初は恐る恐る使っていた筆も慣れ始めると没頭し、先生のポイントを絞ったご指導により全員ゴール出来ました。難しいのは筆に含ませる墨の量、かなり切らないとにじんでしまいます。最低限、墨と筆と色紙でもあれば出来るので夏休みの宿題がてら子供達と自宅でチャレンジしたいと思います。--K.S--

 

★筆使いや墨の濃さ加減は、先生から教えられ、見よう見まねでやりましたが、なかなか難しく…。ただ、暁斎の大好きなカエルの絵が見本だったので、なんだか子供時代にカエル気持ちで筆を進められました。当日参加してくれた絵の大好きな友人二人も、オリジナリティあふれる生き生きとしたカエルを熱心に描いていました。--T.N--

 

★初のワークショップ、日本画教室有難うございました。墨の刷り方、筆の運び方とっても参考になりました。改めて自分が描いて河鍋暁斎の面白い絵が特にカエルの筋肉の付き方とか見方が変わりました。--M.N--

 

★いつもは、パソコンやボールペンで図を描いているので、筆を使うのは新鮮でした。1本の筆で、濃さや、太さの違う線を描いて表現する絵師のすごさを体感できました。--A.K--

 

★絵を描いたのはなんと中学卒業以来です。私に取って歴史的体験です。思いがけない楽しい時間でした。描き終わった後の皆さんの笑い、とても楽しいワークショップでした。--Y.S--

 


暁斎塾レポート

■日 程 :令和元年6月22日(土)14時~16時
■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて
■参加者 :暁斎塾メンバー(さいたまART GEM BOX)

■レポート:暁斎塾・幸野哲也 (facebookより)

本日は午後2時から、2ヶ月に一回偶数月の第四土曜日に蕨眼科3階スペース・キョーサイで開催される〈暁斎塾〉(埼玉県蕨市)に参加しました。

〈暁斎塾〉は幕末から明治にかけて「画鬼」と称され八面六臂の活躍をした多才な日本絵師、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)について、その曾孫である河鍋楠美先生(河鍋暁斎記念美術館館長;医学...博士・蕨眼科院長)の講義を聴講し、参加者が相互に交流を深めるという場です。
今日は前回に引き続き、現在「河鍋暁斎記念美術館」において開催中の『勇の鍾馗展』に出展するとともに監修も担当されている画家の野坂稔和氏からお話を聴く機会となりました。

http://kyosai-museum.jp/hp/tenji_genzai.html

野坂氏は〈河鍋暁斎〉に心底惚れ込まれ、その生きざまはもちろんのこと、その技法も深く研究されています。今日は、その暁斎の技法(描こうとする対象の骨格から描き上げる『着服画法』)に則って自ら取り組んで描き上げられた「鍾馗像」について下絵から彩色などのご苦労話を含め、大変貴重なお話を聴くことができました。

野坂先生の'暁斎愛'は半端ないです!ジョサイア・コンドルの「河鍋暁斎」(岩波書店)を常に持ち歩いておられるそうで、起きてから寝るまで頭の中は〈キョーサイ〉なんでしょうね。
間近にその文庫本を見ましたが、手あかで使い込まれている様子がひしひしと伝わってきました。

「暁斎先生の技法を復活させたい!」という野坂先生の叫びが心に響きました。

また野坂先生のお話を聴きたいと思いながら帰途につきました。


暁斎塾レポート

■日 程 :平成31年4月27日(土)14時~16時
■場 所 :蕨市・スペース暁斎にて
■参加者 :暁斎塾メンバー(さいたまART GEM BOX)

■レポート:暁斎塾・幸野哲也 (facebookより)

 

 本日は16,7名の参加があり、大変盛り上がりました。

「自分の目を肥やすこと、写真もいいけど、やはり本物を見なければ分からない。暁斎の画を見れば歴史、しかも歴史の裏側が分かる。是非本物を見てほしい」

 

埼玉県蕨市の河鍋暁斎記念美術館館長、河鍋楠美先生の持論です;本日午後14時から、先生が院長を務める〈蕨眼科〉3階のスペース暁斎において開催された定例の『暁斎塾』において、...改めて強調されました。

「本物を見なければ、描かれた本当の色彩や線の細やかさなどが分からない」のは、実際に美術館に足を運び鑑賞する機会を重ねる毎に、私自身本当に実感します
そして、先生の言われる「暁斎の画を見れば、歴史の裏が分かる」というのは、幕末から明治という激動の時代にあって冷静に社会を観察し、その思いを表現した画には、暁斎の強烈なバランス感覚を読み取ることができ、歴史は一面だけではないということを意味しているのではないかと、自分なりに解釈しています

 

なお、今回の暁斎塾では最初に、河鍋暁斎に強い影響を受けた新進気鋭の若手画家、野坂稔和氏による『画家の視点から見る暁斎』と題するプレゼンがありました暁斎の生き様からいかに暁斎から影響を受け、暁斎を100%とするならば、自分はその6%位のレベルにしかないと語る野坂氏ですが、そこはプロの画家。現在、20件ほどの依頼を抱えているそうです!

参考に同氏の絵が掲載されている雑誌を拝見しましたが、暁斎ばりでした。

 

5月1日から新たな展示が始まる河鍋暁斎記念美術館の第3展示室で、同氏を含む世界各国選りすぐりのアーティストのグループ展示(『勇の鐘馗(いさみのしょうき)展』があるそうですから、行ってみようと思います。

 

いずれにせよ、私にとって多才な河鍋暁斎は奥が深く、興味が尽きません